ぬるくなったコーヒー

ぬるくなったコーヒーが好きだ。

口に含んだとき、味がはっきり確かに感じられる。

自分が寝てる間に抜き取られた血でつくられたのかな?と思うくらいに体に馴染む、ちょうどいい温度。そのよさに最近気づいて、好きになった。

できれば、コンビニで売ってる、その場で豆を挽いてドリップするやつがいい。できなければ、コンビニで売ってる缶に入ってるやつでもペットボトルに入っているやつでもいい。無糖でも微糖でもカフェオレでもコーヒー牛乳でもいい。スーパーのでも自販機のでも喫茶店のでもいい。要はなんでもいい。コーヒー豆が入っていて、ぬるくなっていることが大事だ。

 

熱いうちに食べる。冷えているうちに飲む。

今までそれが当たり前だったし、それがいいと思って生きてきた。

もちろん、冷めたらおいしくないものはいっぱいある。ラーメン、ごはん、ピザ、天ぷら、とんかつ、餃子、マックのポテト。

あたためたらおいしくないものもいっぱいある。コーラ、アイスクリーム、かき氷。

二十余年の豊かな食事経験を掘り起こせば、熱いのがいちばん、冷たいのがいちばんの食べ物や飲み物がこんなにたくさんある、ってことはわかる。

 

でも、ぬるくなってもそれなりのよさはある、とも思う。

全身から汗が噴き出すような真夏の日に、ハーゲンダッツを冷凍庫から出して直射日光に2時間当てて、「かつてはハーゲンダッツだったぬるくて激甘な液体」をジョッキでイッキ飲みするのが最高、とは言わない。そこまでの強いこだわりはない。

ぬるくなってもいい、とはむしろ、こだわらなさを好きになることだ。

 

私は、ラーメン屋でトッピングをたくさんする人に憧れていた。

ごま、豆板醤、にんにく、柚子胡椒など自分のこだわりのトッピングを、自分のこだわりのタイミングで入れ、味を変えて楽しむ姿。そこに、その人固有の世界がある。出されたものをただ食べるだけの私とは違う「自由」を感じた。いいなと思って真似もしてみたが、小瓶から調味料をスプーンですくって入れる、マッシャーですり潰して入れる、という行為がしんどくてすぐに諦めた。そのぶん憧れも強くなった。

 

ぬるくなったコーヒーは、そんな憧れのこだわりとは対極にある。

自分が一番おいしいと思うアレンジを加えたわけではない。うまみが増すように長時間寝かせて熟成させたわけでもない。ただ、ぬるくなっただけ。そうしたんじゃない。そうなっただけ。私は何もしていない。

なのに、それが確かにおいしかった。

「こだわりがない」といえば、思い入れがない、主体性がない、ビジョンがない、という負のイメージがつきまとうけど、それは「変わることを味わう態度」とも取れる。

こだわることはある種、変化に背くことだ。これが一番なんだと決めてしまう。でも決めてしまうと、その一番が手に入らなかったとき、それを逃してしまったときに悲しくなる。出来立てがベストだと思っていると、飲み会に遅れた時に、冷めて固くなったピザを食べるのがちょっと嫌だったり。ずっと大好きだった音楽がそんなに響かなくなってショックを受けたり。気の合う親友と久々に会ったら、昔のような関係にはもう戻れないと知って喪失感を味わったり。

そこで感じるのは、理想と現実のずれに対するもどかしさや、二度と戻ってこない楽しさに追いすがる未練、あるいは諦めかもしれない。身にしみる冷たさや強い苦味かもしれない。でも、その味や感覚は、きっと新しい。冷たさを知ると、温かさを支える人たちの力に気がつく。苦さの奥深いところまで潜っていくと、苦さと切っても切り離せない、自分にとって大切なことが見えてくる。そういうのはたぶん面白い。

 

で、そんなふうに面白がれるのは「変わることを味わう態度」をもっていればこそなんだろう。今までの一番がこれからもずっと一番だと思っていたら、面白さに気づかないだろうから。ゴールを早々と決めてそこに効率よく行くことに専念すると、その道に立ちはだかる可能性はすべて、取り除くべき障害になってしまう。可能性を可能性としてつかまえたいなと思う。

 

こだわらない、とは新しさを受け止められることだ。

コントロールできない変化をできないままに、自分の中に取り込むことだ。

だから私は、ぬるくなったコーヒーが好きだ。

 

まずは、口を開いたら何か面白いこと、うまいことを言わないといけない、というこだわりを捨てようと思う。