なぜ今、エッセイなのか?

エッセイの魅力

 日常の出来事や自分が感じたことを思うままにつづる。それがエッセイだ。最近そのエッセイを読むのにハマっている。

 これまでは「本屋に通っていると無趣味で引きこもりの人間でも知的に見える」「マイナーな本を棚の隅から発掘して店員さんに『わかってる』感を見せつけたい」「家の棚に入りきらない本が『縦に積まれている』状態を作るとインテリ感が出て良い」という非常に頭の悪い理由で本屋に行っていた私だが、エッセイ目当てで毎週足を運ぶほどにハマってしまった。趣味が「賢ぶる」から「他人の私生活の変なところを覗き見て喜ぶ」にグレードアップしたということである。このように、自意識ぬきに読みたくなるような魅力がエッセイにはあるのだ。

 

エッセイのどこがいいのか

 「でも所詮エッセイでしょ、フィクションの方が面白いよ」という意見が聞こえてきそうだ。確かにそうかもしれない。エッセイでは、明日地球が終わるという現実に直面した人々の生き方も、不器用で切ない愛情も、人を殺す人の極限の心理状態も描かれない。思わず涙するような感動も、衝撃のラストもない。小説で繰り広げられるようなドラマはエッセイにはない。

 じゃあ一体エッセイのどこが良いのか。私にとっての良さを書いてみたい。あくまで「私にとっての」だが、エッセイはあまり読んだことないよ、という方が興味をもってくれたり、エッセイを好きな方が「歪んだ愛もあるんだな」と知ってくれたりするきっかけになれば嬉しい。

 

エッセイは省エネ

 話は飛ぶが、自由に使える時間が限られる学生の方々や働く方々にとって、余暇をどう過ごすかはわりと大事な問題じゃないだろうか。少なくとも私にとってはそうだ。会社員として労働力と労働時間を売っているので、平日夜・土日という有限の可能性を何に使うかというテーマに心血を注いでいる。

 まず、友達と飲む、スポーツをする、おいしいものを食べる、映画を見に行く、などの過ごし方は論外である。これらをやったが最後「疲れた」以外のあらゆる感情が死ぬからだ。私の住む地域で家の外に出ようものなら、見知らぬ人たちと恋人レベルの距離で長時間過ごすことになり、とにかく神経がすり減る。知っている人と話すのにだって莫大なエネルギーを使う。道中にどれだけ楽しいことがあろうと関係ない。疲れが万象一切を灰燼(かいじん)と為す。色々な場所にわざわざ足を運んで金を払って、手に入るのは重度の疲労だけなんて、私には耐えられない。

 そんな事情から、余暇生活者は家外市場から家内市場へと撤退を余儀なくされる。俗に言う引きこもりの誕生である。でもここで間違っても映画、アニメ、ドラマ、ゲームなどに手を出してはいけない。映像・音・物語といった多重の刺激によって、思考や記憶を司る脳の部位が活動停止するおそれがあるからだ。かといってお絵かきなどの創作を行う元気も、「『何もしない』をする」というクリストファー・ロビンのような高度な趣味も持ち合わせていないので、やはり既存の創作物をだらだらと消費して過ごしたい。そこで、文字情報のみというシンプルさを誇る「本」が最有力候補となる。

 ところが、本の中で一番メジャーな「小説」には危険がいっぱいだ。小説は、登場人物が多い、どれが誰のセリフかわかりにくい、解釈より描写が多くて筋が見えにくい、設定がぶっ飛んでいる、驚きの展開、4回泣ける、といった要素のうちどれか一つ、あるいは複数を含んでいると思う。これらの要素も私の頭脳を飽和・混乱させるのに十分すぎるため、回避すべき対象となる。フィクションの世界を受け入れるのは骨が折れる。

 したがって、より刺激の少ないエッセイなるものを体が求めるようになるのだ。前置きが異常に長くなってしまったが、以上の慎重な審議の結果、「エッセイを読むこと」が最もラクで、それゆえに至高の余暇活動である、というこの世の真理に辿り着く。

 では、どんなふうにラクなのか。

 

言いたいことがわかりやすい

 まず、エッセイの多くが筆者視点の一人称で語られるため、筆者が何を言いたいのかがわかりやすい。私はこうした、そこで誰それがこう言って私はこう思った、この話から、私はこういう結論にたどり着いた、という具合に「私」のモノローグを地にして話が進む。文章はほぼ全て筆者の主観だ。簡単にいうと「これにびっくりした!」「私はこれが好きだ!」「わけわかんねー!!」というメッセージが未成年の主張ばりに直球で放たれる。

 そのおかげで、他人の心を理解する能力を欠いた私などでも「これが好きなのか」「わけがわからなかったんだね」とわかるのだ。「つまり〇〇だ」が全部書いてあるので、小説を読むときみたいに会話や人物の描写からメッセージを読み取る手間がかからない。殺人のトリックも複雑な心理も推し量る必要がなく、缶ビールをしこたま飲んでピザを食い散らし、涎を垂らしながらでも読解できる。それくらい頭を使わなくていい。

 

ダメさに救われる

 主張がストレートなだけでなく、書き手の弱さに焦点を当てたものが多い。だから読み手は、逆境は別に乗り越えなくても生きてていいんだな、と救われる。たとえば、無職になった筆者がハローワークで面談1時間半待ちを食ったが、みな無職なので予定もなければ社会的影響もなく、怒る人は誰もいなかった。かと言って笑顔もなかった(注1)、すっぴん&スウェットでダーツバーに行ったら赤の他人に「ブス」呼ばわりされたが、思春期の頃ならバトルを始めるところを、頭の中で「心の醜い男ね。彼女にふられるといい!」と毎晩呪うに留めたので成長を感じた(注2)など、自分の立場を下げて笑いをとる芸風が多い。

 小説だと、どんな登場人物でもほぼ確実に凄まじい洞察力と論理的思考力、「お前ならそうするよな」と読み手を納得させるもっともらしさを兼ね備えているため、隙がなさすぎて、自分の頭の悪さが恥ずかしくなるリスクがある。しかしエッセイは隙ありまくりのガバガバの理屈を持ち出して人生の悲哀をユーモラスに描き、読み手に安心感を与えてくれる。ダメなことを放置したって何かが終わるわけじゃない、もっと適当に生きていい、と教えてくれるので、気持ちがラクになる。とりあえず私は無職になってパジャマでダーツバーに行くことからセカンドライフを始めようと思えた。エッセイは「こうするべき」というこだわりから人を解放する効果があるといえる。

 

クレーマーになれる

 さらに、「適当でいい」を通り越して「クレームをつけてもいい」という境地まで達するのが、エッセイの味わい深いところだ。露出の多い服を着た遊び人らしき若者が街を歩いていて嫌悪感を抱いていたら、普段はおとなしい犬が彼女らに牙をむいて吠えかかったので「よくやった」と思った(注3)というエピソードがある。私はこれを読んで衝撃を受けた。チャラチャラした外見と態度の奴が気にくわない、という完全なる言いがかりであっても、エッセイの形式ならば出版物として通ってしまうのだ。なんとも夢のある話ではないか。

 誤解なきように言うと、上のエピソードの本旨は「自分と犬のうさんくさいと思う対象が同じで、心が通じ合ったことにうれしくなった」という点にある。オレアイツキライが主題ではない。だからって、キライの理由がクレーマーのそれであることを公言してはばからないとは。でも不思議と、読後感は不快じゃない。これもエッセイの軽妙な語り口と、自由に書ける風土のなせる技なのだろう。

 イチャモンもエッセイならば許される。その事実は私を大いに勇気づけた。誰からも賛同されないような文句が口から出そうになったら、文章で吐き出せばいいのだ。これからは、日々の暮らしで浮かんだ罵詈雑言を人知れず自由に書き綴っていこうと思った。エッセイは人を倫理観からも解放してくれるのである。

 

 「エッセイを読む」という活動がどれほどラクか、読むとどれほどラクになれるのか、ということが少しでも伝わったらうれしい。読解力がいらない、ダメさを受け入れられる、倫理観を捨てられる、などの魅力がエッセイにはある。「顎の力が弱いなら、肉は諦めて豆腐を食べよう」「クレームは自分に反撃が及ばない安全地帯でやろう」という老化・老害化推進メッセージとほぼ同じような気もするが、多忙で息苦しい現代社会において、ときに理性や常識をかなぐり捨てる時間もあっていいのかなと思う。そんな時間をエッセイは提供してくれる。

 ここに書いてある内容を実践することにより民事的なトラブルが発生した場合、当方では一切の責任を負いかねます。あらかじめご了承ください。

 

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本文で取り上げたエッセイ

 

注1 カレー沢薫『負ける技術』講談社文庫

負ける技術 (講談社文庫)

負ける技術 (講談社文庫)

 

 

注2 三浦しをん『お友だちからお願いします』だいわ文庫

お友だちからお願いします (だいわ文庫)

お友だちからお願いします (だいわ文庫)

 

 

注3  群ようこ『ネコと海鞘』文春文庫

ネコと海鞘 (文春文庫)

ネコと海鞘 (文春文庫)