セルフお悩み相談
どういうわけか最近うつ気味だ。
友人がうつになったとき、布団から出たくないではなく出られなくなった、体が言うことを聞かなくなった、という話を思い出す。
私のはそこまでエスカレートしてはいないが、今は「仕事をしたくない」と「仕事をやろうとしてもできない」を行ったり来たりしている状態だ。
「したくない」のうちはなんとかこなせているが、それがふと「できない」に変わる。トイレや休憩所に逃げる回数が増えてきた。
これまでは「したくない」と思うことがあまりなかった。でも今は多くなった。
「できない」は月に1回くらいはあったが、数秒休んだら仕事に戻れた。でも今は日に5回くらいになり、戻るまで数分かかる。ぼーっとするという意識だけの逃避も増えた。
致命的な変化ではないが、けっこう困っている。
仕事が遅れるし、無気力だし、何より無気力の正体がわからなくて、どう処理したらいいかわからない。困っている。
だから、その正体を少しでも知るために、何が起こっているのかを書き出してみる。
・人に何かを説明するとき、言葉が出にくくなっている(台本は読めるし、定型句は言えるが、相手に合わせて発言を組み立てることがしにくい)。
・だから、人の質問に答える、質問する、相談する、発表する、などが億劫になっている(とくに、即レスを求められないメール返信)。
・それで仕事が進まず、焦って気持ちの余裕がなくなり、ますます進まなくなっている(人にものを頼むのがもともと苦手というのもある)。
・興味の薄いものごとへの耐性が低くなっている(ニュース閲覧や仕事などが手につきにくい)。
・「やりたくないけどやるべきと思っていること」をやれなくなっている、とも言えそう。
・興味のあったものごとへの興味を失ってきている(本を読む気が起こらない)。
・「やりたいと思っていたこと」は「やりたいと思い込んでいただけ」、または「一定の頑張りによってやれていた」とも言えそう。
・何もしない時間が生まれると、わけもなく気分が沈む。
・歩くのが遅くなっている。時間を節約するためと、キビキビ動く方がかっこいいと思っていたのとで早歩きしていたのが、できなくなっている。
何かしらのエネルギーが足りなくなって、「やるべき」「やらねばならない」「こうありたい」という義務感や理想では体を動かせなくなってきている、ということか。掟で自分を縛っていたのが、弱って縛られるようになってしまった。
たぶん、その縛りプレイを見直した方がいいんだと思う。
個々のイベントに原因があるというより、そういうスタイルを自分自身と混同しているのが問題だろう。
とりあえず、これを印刷して病院に持って行こうと思う。早めに。
伝えたいことがあるんだ
ある人にどうしても伝えたいことがあって、でも面と向かっては言いにくいことなので、ここに書きます。
私は、あなたをよく叱っていました。
あなたがヘマをしたり、人に迷惑をかけたり、意味不明なことを言ったりやったりするたびに、なんでそんなこともできないんだよ、もっと効率よくやれよ、馬鹿だなあ、と叱っていました。
イベント会場の設営をする仕事で、周りの人が素早くやるべきことを見つけ、人に指示を出し、臨機応変に動いている姿を見ながら、あなたは何をすればいいかわからなさそうに、ただ立ち尽くしてましたね。
初対面同士が集まった場でみんな順番に自己紹介をして、あなたが自己紹介をし終わったあと、「え、名前は・・・?」と周りに言われたことが何回もありましたよね。
あなたがトラブル続きで他の人の仕事を大量に増やしてしまった時、ひたすら腰低くして「すいませんすいません」って謝ってましたね。
馬鹿だなあと思ってました。
なんで棒立ち?普通に考えれば何をするべきかくらいわかるだろ。わかんなかったら人に聞くとかしようよ。なんで自分の名前を言い忘れるの?どういう頭してるんだ。なんでそんなペコペコしてるの?一番ダサいよね。デキない上に、「自分は弱い人間なんです、弱いからこれ以上攻撃しないで〜」って逃げてるんでしょ。ダメな奴の典型じゃん。そんなんだからお前はダメなんだよ。と思ってました。
会場設営のとき、他の人が「おまえ何がしたいんだよ」と呆れ顔であなたに指示を出してるのを見て、私は「ほんと役に立たないやつですみません」と代わりに謝りましたよね。他の人が聞いて気分を悪くしないように、誰も見ていないところで直接「ほんとムカつくなー笑」とも言いましたよね。
普段の業務にもツッコミどころしかないです。なんでメール一本打つのに1時間かけてるのか。美文を売るお仕事なんですか。なんでトラブってるのに早く周りに相談しないのか。現場で困ってる人がいるのに「自分の力で解決する」ことの方が大事なんですか。ただの自己満じゃないですか。で、一人で抱え込んで悶々として勝手に機嫌悪くしてるとか、ただの害悪ですよね。組織の足を引っ張ってるんですよ。わかってます?あと最後に言っておきますけど、自分が無能なせいで残業してるんだから超勤つけないでくださいね。
こっちも言いたくて言ってるんじゃないんです。あなたはすぐ怠けるから、これくらいきつめに言わないと変わんないでしょ。愛の鞭ってやつです。もっと社会人としてちゃんとしてくれよ、っていう熱いエールなんです。私みたいに叱る奴がいないと、あなたはいつまでも人に甘えて成長しないでしょう。あなたのことは、私が一番よくわかってる。私の言う通り、反省して、もっとうまくやれよ。どうすればいいかって?そんなのあなたが考えることじゃないですか。
という具合に、あなたに叱咤激励をしてきた私でした。
最近、ニュースを見ました。
JAXAの施設で人工衛星の管制業務を行なっていた方が、長時間労働や上司のパワハラなどから過労自殺し、それが労災認定されたというニュースです。達成困難なノルマを課されて仕事量が大幅に増えていたこと。常に緊張が強いられる業務で過酷や夜勤や残業も多かったこと。残業を申請すると注意されてサービス残業をさせられていたこと。上司から何をどう改善すればいいのか説明が全くないまま、仕事のやりなおしを複数回求められたこと。他の人の前で30分叱責されたこと。そんなことが報じられていました。
なんてひどい話だ。亡くなった方はどれだけ辛かっただろう。そこまで考えて、ふと気づきました。
私も同じことをしている。
ニュースの事例ほど、あなたの労働時間は長くないし責任も重くない。けれど、あなたが苦手な、臨機応変さが求められる仕事をたくさん押し付け、できなかったら人格を否定して自尊心を傷つける。ろくなアドバイスもせず頑張れとしか言わず、同じミスをしたらまた否定。些細なことでも大失態のように責め立て、あなたを常に萎縮させ、緊張させる。「あなたのことは長く面倒を見てきた私が一番よくわかっている」と保護監督者の顔をして、あなたは一人じゃ何もできないんだから私に黙って従え、と呪いをかけて身動きを取れなくする。こいつがご迷惑をおかけしてすみません、と周りに謝ってあなたの面子を潰す。サビ残をさせる。私は立派なパワハラをしていました。あなたを自殺こそさせていませんが、人権を侵害していたことは確かです。
あなたがダメなんじゃない。私があなたをダメにしていた。
それにようやく気づきました。
ごめんなさい。私は私自身に謝ります。
そして、もうやめます。私は私自身にパワハラするのをやめます。
心身ともに健康に働く。自分に合った仕事をする。創造的な仕事をする。そのために働き方を変える。業務の量や内容の見直しを上司に求める。組織全体で変わっていく。どれも大事なことです。
でも何より先に、一番はじめに、自分で自分を否定しないことが必要なんだと思います。自分で自分をダメなやつだと決めつけてしまったら、そこでおしまいだから。どんなアイデアも行動も生まれなくなってしまうから。
だいぶ周回遅れの話ではありますが、それでもこのスタート地点に立てたことはよかった。とりあえず、自分で自分を褒めたいと思います。
ぬるくなったコーヒー
ぬるくなったコーヒーが好きだ。
口に含んだとき、味がはっきり確かに感じられる。
自分が寝てる間に抜き取られた血でつくられたのかな?と思うくらいに体に馴染む、ちょうどいい温度。そのよさに最近気づいて、好きになった。
できれば、コンビニで売ってる、その場で豆を挽いてドリップするやつがいい。できなければ、コンビニで売ってる缶に入ってるやつでもペットボトルに入っているやつでもいい。無糖でも微糖でもカフェオレでもコーヒー牛乳でもいい。スーパーのでも自販機のでも喫茶店のでもいい。要はなんでもいい。コーヒー豆が入っていて、ぬるくなっていることが大事だ。
熱いうちに食べる。冷えているうちに飲む。
今までそれが当たり前だったし、それがいいと思って生きてきた。
もちろん、冷めたらおいしくないものはいっぱいある。ラーメン、ごはん、ピザ、天ぷら、とんかつ、餃子、マックのポテト。
あたためたらおいしくないものもいっぱいある。コーラ、アイスクリーム、かき氷。
二十余年の豊かな食事経験を掘り起こせば、熱いのがいちばん、冷たいのがいちばんの食べ物や飲み物がこんなにたくさんある、ってことはわかる。
でも、ぬるくなってもそれなりのよさはある、とも思う。
全身から汗が噴き出すような真夏の日に、ハーゲンダッツを冷凍庫から出して直射日光に2時間当てて、「かつてはハーゲンダッツだったぬるくて激甘な液体」をジョッキでイッキ飲みするのが最高、とは言わない。そこまでの強いこだわりはない。
ぬるくなってもいい、とはむしろ、こだわらなさを好きになることだ。
私は、ラーメン屋でトッピングをたくさんする人に憧れていた。
ごま、豆板醤、にんにく、柚子胡椒など自分のこだわりのトッピングを、自分のこだわりのタイミングで入れ、味を変えて楽しむ姿。そこに、その人固有の世界がある。出されたものをただ食べるだけの私とは違う「自由」を感じた。いいなと思って真似もしてみたが、小瓶から調味料をスプーンですくって入れる、マッシャーですり潰して入れる、という行為がしんどくてすぐに諦めた。そのぶん憧れも強くなった。
ぬるくなったコーヒーは、そんな憧れのこだわりとは対極にある。
自分が一番おいしいと思うアレンジを加えたわけではない。うまみが増すように長時間寝かせて熟成させたわけでもない。ただ、ぬるくなっただけ。そうしたんじゃない。そうなっただけ。私は何もしていない。
なのに、それが確かにおいしかった。
「こだわりがない」といえば、思い入れがない、主体性がない、ビジョンがない、という負のイメージがつきまとうけど、それは「変わることを味わう態度」とも取れる。
こだわることはある種、変化に背くことだ。これが一番なんだと決めてしまう。でも決めてしまうと、その一番が手に入らなかったとき、それを逃してしまったときに悲しくなる。出来立てがベストだと思っていると、飲み会に遅れた時に、冷めて固くなったピザを食べるのがちょっと嫌だったり。ずっと大好きだった音楽がそんなに響かなくなってショックを受けたり。気の合う親友と久々に会ったら、昔のような関係にはもう戻れないと知って喪失感を味わったり。
そこで感じるのは、理想と現実のずれに対するもどかしさや、二度と戻ってこない楽しさに追いすがる未練、あるいは諦めかもしれない。身にしみる冷たさや強い苦味かもしれない。でも、その味や感覚は、きっと新しい。冷たさを知ると、温かさを支える人たちの力に気がつく。苦さの奥深いところまで潜っていくと、苦さと切っても切り離せない、自分にとって大切なことが見えてくる。そういうのはたぶん面白い。
で、そんなふうに面白がれるのは「変わることを味わう態度」をもっていればこそなんだろう。今までの一番がこれからもずっと一番だと思っていたら、面白さに気づかないだろうから。ゴールを早々と決めてそこに効率よく行くことに専念すると、その道に立ちはだかる可能性はすべて、取り除くべき障害になってしまう。可能性を可能性としてつかまえたいなと思う。
こだわらない、とは新しさを受け止められることだ。
コントロールできない変化をできないままに、自分の中に取り込むことだ。
だから私は、ぬるくなったコーヒーが好きだ。
まずは、口を開いたら何か面白いこと、うまいことを言わないといけない、というこだわりを捨てようと思う。
なぜ今、エッセイなのか?
エッセイの魅力
日常の出来事や自分が感じたことを思うままにつづる。それがエッセイだ。最近そのエッセイを読むのにハマっている。
これまでは「本屋に通っていると無趣味で引きこもりの人間でも知的に見える」「マイナーな本を棚の隅から発掘して店員さんに『わかってる』感を見せつけたい」「家の棚に入りきらない本が『縦に積まれている』状態を作るとインテリ感が出て良い」という非常に頭の悪い理由で本屋に行っていた私だが、エッセイ目当てで毎週足を運ぶほどにハマってしまった。趣味が「賢ぶる」から「他人の私生活の変なところを覗き見て喜ぶ」にグレードアップしたということである。このように、自意識ぬきに読みたくなるような魅力がエッセイにはあるのだ。
エッセイのどこがいいのか
「でも所詮エッセイでしょ、フィクションの方が面白いよ」という意見が聞こえてきそうだ。確かにそうかもしれない。エッセイでは、明日地球が終わるという現実に直面した人々の生き方も、不器用で切ない愛情も、人を殺す人の極限の心理状態も描かれない。思わず涙するような感動も、衝撃のラストもない。小説で繰り広げられるようなドラマはエッセイにはない。
じゃあ一体エッセイのどこが良いのか。私にとっての良さを書いてみたい。あくまで「私にとっての」だが、エッセイはあまり読んだことないよ、という方が興味をもってくれたり、エッセイを好きな方が「歪んだ愛もあるんだな」と知ってくれたりするきっかけになれば嬉しい。
エッセイは省エネ
話は飛ぶが、自由に使える時間が限られる学生の方々や働く方々にとって、余暇をどう過ごすかはわりと大事な問題じゃないだろうか。少なくとも私にとってはそうだ。会社員として労働力と労働時間を売っているので、平日夜・土日という有限の可能性を何に使うかというテーマに心血を注いでいる。
まず、友達と飲む、スポーツをする、おいしいものを食べる、映画を見に行く、などの過ごし方は論外である。これらをやったが最後「疲れた」以外のあらゆる感情が死ぬからだ。私の住む地域で家の外に出ようものなら、見知らぬ人たちと恋人レベルの距離で長時間過ごすことになり、とにかく神経がすり減る。知っている人と話すのにだって莫大なエネルギーを使う。道中にどれだけ楽しいことがあろうと関係ない。疲れが万象一切を灰燼(かいじん)と為す。色々な場所にわざわざ足を運んで金を払って、手に入るのは重度の疲労だけなんて、私には耐えられない。
そんな事情から、余暇生活者は家外市場から家内市場へと撤退を余儀なくされる。俗に言う引きこもりの誕生である。でもここで間違っても映画、アニメ、ドラマ、ゲームなどに手を出してはいけない。映像・音・物語といった多重の刺激によって、思考や記憶を司る脳の部位が活動停止するおそれがあるからだ。かといってお絵かきなどの創作を行う元気も、「『何もしない』をする」というクリストファー・ロビンのような高度な趣味も持ち合わせていないので、やはり既存の創作物をだらだらと消費して過ごしたい。そこで、文字情報のみというシンプルさを誇る「本」が最有力候補となる。
ところが、本の中で一番メジャーな「小説」には危険がいっぱいだ。小説は、登場人物が多い、どれが誰のセリフかわかりにくい、解釈より描写が多くて筋が見えにくい、設定がぶっ飛んでいる、驚きの展開、4回泣ける、といった要素のうちどれか一つ、あるいは複数を含んでいると思う。これらの要素も私の頭脳を飽和・混乱させるのに十分すぎるため、回避すべき対象となる。フィクションの世界を受け入れるのは骨が折れる。
したがって、より刺激の少ないエッセイなるものを体が求めるようになるのだ。前置きが異常に長くなってしまったが、以上の慎重な審議の結果、「エッセイを読むこと」が最もラクで、それゆえに至高の余暇活動である、というこの世の真理に辿り着く。
では、どんなふうにラクなのか。
言いたいことがわかりやすい
まず、エッセイの多くが筆者視点の一人称で語られるため、筆者が何を言いたいのかがわかりやすい。私はこうした、そこで誰それがこう言って私はこう思った、この話から、私はこういう結論にたどり着いた、という具合に「私」のモノローグを地にして話が進む。文章はほぼ全て筆者の主観だ。簡単にいうと「これにびっくりした!」「私はこれが好きだ!」「わけわかんねー!!」というメッセージが未成年の主張ばりに直球で放たれる。
そのおかげで、他人の心を理解する能力を欠いた私などでも「これが好きなのか」「わけがわからなかったんだね」とわかるのだ。「つまり〇〇だ」が全部書いてあるので、小説を読むときみたいに会話や人物の描写からメッセージを読み取る手間がかからない。殺人のトリックも複雑な心理も推し量る必要がなく、缶ビールをしこたま飲んでピザを食い散らし、涎を垂らしながらでも読解できる。それくらい頭を使わなくていい。
ダメさに救われる
主張がストレートなだけでなく、書き手の弱さに焦点を当てたものが多い。だから読み手は、逆境は別に乗り越えなくても生きてていいんだな、と救われる。たとえば、無職になった筆者がハローワークで面談1時間半待ちを食ったが、みな無職なので予定もなければ社会的影響もなく、怒る人は誰もいなかった。かと言って笑顔もなかった(注1)、すっぴん&スウェットでダーツバーに行ったら赤の他人に「ブス」呼ばわりされたが、思春期の頃ならバトルを始めるところを、頭の中で「心の醜い男ね。彼女にふられるといい!」と毎晩呪うに留めたので成長を感じた(注2)など、自分の立場を下げて笑いをとる芸風が多い。
小説だと、どんな登場人物でもほぼ確実に凄まじい洞察力と論理的思考力、「お前ならそうするよな」と読み手を納得させるもっともらしさを兼ね備えているため、隙がなさすぎて、自分の頭の悪さが恥ずかしくなるリスクがある。しかしエッセイは隙ありまくりのガバガバの理屈を持ち出して人生の悲哀をユーモラスに描き、読み手に安心感を与えてくれる。ダメなことを放置したって何かが終わるわけじゃない、もっと適当に生きていい、と教えてくれるので、気持ちがラクになる。とりあえず私は無職になってパジャマでダーツバーに行くことからセカンドライフを始めようと思えた。エッセイは「こうするべき」というこだわりから人を解放する効果があるといえる。
クレーマーになれる
さらに、「適当でいい」を通り越して「クレームをつけてもいい」という境地まで達するのが、エッセイの味わい深いところだ。露出の多い服を着た遊び人らしき若者が街を歩いていて嫌悪感を抱いていたら、普段はおとなしい犬が彼女らに牙をむいて吠えかかったので「よくやった」と思った(注3)というエピソードがある。私はこれを読んで衝撃を受けた。チャラチャラした外見と態度の奴が気にくわない、という完全なる言いがかりであっても、エッセイの形式ならば出版物として通ってしまうのだ。なんとも夢のある話ではないか。
誤解なきように言うと、上のエピソードの本旨は「自分と犬のうさんくさいと思う対象が同じで、心が通じ合ったことにうれしくなった」という点にある。オレアイツキライが主題ではない。だからって、キライの理由がクレーマーのそれであることを公言してはばからないとは。でも不思議と、読後感は不快じゃない。これもエッセイの軽妙な語り口と、自由に書ける風土のなせる技なのだろう。
イチャモンもエッセイならば許される。その事実は私を大いに勇気づけた。誰からも賛同されないような文句が口から出そうになったら、文章で吐き出せばいいのだ。これからは、日々の暮らしで浮かんだ罵詈雑言を人知れず自由に書き綴っていこうと思った。エッセイは人を倫理観からも解放してくれるのである。
「エッセイを読む」という活動がどれほどラクか、読むとどれほどラクになれるのか、ということが少しでも伝わったらうれしい。読解力がいらない、ダメさを受け入れられる、倫理観を捨てられる、などの魅力がエッセイにはある。「顎の力が弱いなら、肉は諦めて豆腐を食べよう」「クレームは自分に反撃が及ばない安全地帯でやろう」という老化・老害化推進メッセージとほぼ同じような気もするが、多忙で息苦しい現代社会において、ときに理性や常識をかなぐり捨てる時間もあっていいのかなと思う。そんな時間をエッセイは提供してくれる。
ここに書いてある内容を実践することにより民事的なトラブルが発生した場合、当方では一切の責任を負いかねます。あらかじめご了承ください。
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本文で取り上げたエッセイ
注2 三浦しをん『お友だちからお願いします』だいわ文庫
注3 群ようこ『ネコと海鞘』文春文庫
家事がめんどくさい理由
めんどくさい。
ふだん、だれもが多かれ少なかれ抱く感情ではないだろうか。
月曜日に会社や学校に行くのが、会社の飲み会が、休みに外に出るのが、めんどくさい。どうにもやる気が出ない。何もしたくない考えたくない。私は貝になりたい。人間をやめてなかったら、そう思うことがきっとあるだろう。でも大抵は、めんどくさいばっか言っても何も始まらないよね、ちゃんとやらなきゃ、と切り替えて日常を再開する。の繰り返し。そいつが顔を出すたび、頑張って押さえ込む。自分の足を引っ張るから消そうとする。
最近、この厄介な「めんどくささ」って一体なんなんだろう?と考えるようになった。厄介だからこそ、私は振り払うばかりで、その正体を知ろうとしてこなかった。知ろうとしなくて当たり前じゃん、だってめんどくさいもん。意味わかんねー、めんどくさい奴だな。・・・とお思いの方、仰るとおりです。ぐうの音も出ない正論。だけれど、よくわからないめんどくささに振り回されて気分が下がったり、動きたくなくなったりする方が意味わからなくない?納得いかなくない?とも思うので、こいつの正体を少しでも暴いてみたい。めんどくさいけど。
めんどくさい は自然な気持ち?
「めんどくさい」っていうのは、生物として理にかなった気持ちなんだ。そんな話を聞いたことがある。他人の気持ちや物事を理解しようとしたり、周りの人に働きかけたり、決められたことをこなしたりするのは、とても大変でエネルギーが要る。ヒトはできるだけラクをしたい生き物でエネルギーは使いたくないから、めんどくさいと言って逃げようとするもんだ、みたいな話。確かにそういう面もあると思う。だるいから、疲れるからやりたくない。
じゃあ、毎日ランニングをしている人は皆イヤイヤやってるのか?平日は働き詰めで土日はバンド仲間と一日中演奏している人は皆、筋金入りのマゾヒストなのか?もちろん、そんな人ばかりじゃないはずだ。そうです、私は根っからのマゾヒストなんです!って人もいるかもしれないけど(それもいいと思うけど)、仕事以外でたくさん時間を割くのは、単純にそれが好きだから、って場合が多いと思う。好きなことだったら負担と思わなかったり、しんどくても楽しさの方が勝ったりする。だから、労力が要ることは全てめんどくさい、とは言い切れない。
好きじゃなかったらめんどくさい?
それなら、好きじゃないけどやらなきゃいけないことはやっぱり「めんどくさい」?そうとも限らない。たとえば、電車でお年寄りの人に席を譲る、というシーンで「めんどくさいけど、周りから白い目で見られないように譲るか」と考えるだろうか。少なくとも私が譲る側なら、そもそも「めんどくさいと思うこと」が選択肢にないと思う。これはマナーや、小難しく言うと倫理や規範が発動しているからだ。助けが必要な人は助けるのが当然。こうするのが正しいこと、人として当たり前のこと、という枠組みに嵌まりこんでいるから、そこから外れるようなことは検討対象にすらならない。めんどくさいとか思うのがおかしい。思っちゃいけない。
私にとっては仕事も似たようなものだ。自分が任された立場や業務がある。それらをちゃんと担い遂げる、やり抜くのが「社会人として」当たり前。忙しいけど、自分だけじゃなくみんなそうだし。そこに「めんどくさい」が入り込む隙はない。こうして見ると、周りの人たちが当たり前だと思っていること、他者が期待することなら、めんどくさくないのかも。
めんどくさい の正体
でも待てよ、他者が期待するけどめんどくさい、ってこともいっぱいあるじゃないか。私がめんどくさいと思うことは、掃除、洗濯、料理、電気ガス水道の支払い、ヒゲを剃る、髪を切る、寝癖を直す、服を着る、体を洗う、外に出る、ネットで買い物をする、ほか多数。もうくたばるしかないのでは?という結論に達しそうだが、食べることと寝ることは大好きなのですみませんが生きます。どうやら、私は家のことならめんどくさいらしい。仕事はめんどくさくないのに、仕事と家でなにが違うのか?
おそらく義務と義務感の違いだろう。仕事は義務。やるべきなだけでなく、やるのが当たり前だと思っている。家でのことは、やるべきとわかってはいるけれど、やって当たり前とは思っていない。他者の目から部分的に解放されているから。で、「やりたくない」という気持ちが沸き上がるのを止められなくて、だけど「ほんとはやらなきゃ」という義務感にも追い立てられて、板挟みで苦しい。
この板挟みがめんどくささの正体ではないか。これをやらねばと思うほど、そのハードルがぐんぐん高くなって、越えられなくなってしまう。つまり、めんどくさいけどやらなきゃ、ではなく「やらなきゃだからめんどくさい」だったのだ。順番も接続も逆。ちなみに「めんどくさいとはなにか」でググったら同じようなことを言ってる記事が秒で見つかりました。ここまで読んだ人は、同じ内容を聞くのに「めんどくさい」という呪いの言葉を26回も余計に浴びたことになります。この場を借りてお詫び申し上げます。
話がそれた。だいぶ回り道をしてきたが、結局「やらなきゃと思うからめんどくさい」という面白くもなんともない所に着地した。
正体がなんとなく見えたところで、じゃあどうすればいい?めんどくささとどう付き合えばいいのか?・・・とハウツー本的なノリを持ち込みたくなるのだが、ここでは控える。こんな文章をだらだら書くのがめんどくさくなった。答えは一人一人の胸の中にあるはずだからだ。あるいは、各人が探し出すものだからだ(べつに探し出さなくてもいい)。私がこれ以上なにか申し伝えるのは野暮というものだろう。
「できない人」の仕事術
しかし今になって振り返ると、この方面の努力は全くの無駄だったと思う。猿真似をどう頑張ったって、所詮は他人の劣化コピーにしかなれなかったから。そもそも身体に搭
前置きが長くなってごめんなさい。要するに「できない奴」にはでき
1. 考えをつなぐことができない
一番大きな問題は、自分の考えを連続させることが苦手、というこ
考えがすぐ霧消してしまうなら、「そうさせない」ではなく「そう
一番に心がけているのは「初めて読む人でも理解できるように書く
こんなことをいちいちやっていたら、当然ながら手間はかかる
2. 余計な考えに支配され、他に手がつかない
ただでさえメモリが小さいのに、答えをすぐ出せなさそうな問題や
こういうのは、芽が出たらすぐ摘むようにしている。たとえば「今まで使えてい
私にできないことは何か、これらに振り回されつつもどう乗りこな
たしかに苦手の正体を探るのは面倒だし、その過程で自分の嫌な面